プライド、パレード考

欧米のゲイパレードは、ひどい、非人道的なゲイ差別への戦いの歴史であって、日本のパレードとは意義が異なる。日本のホモフォビアは、欧米のようにあからさまでなかったため(ゲイ行為を禁じるソドミー法などはなかった)、逆説的だが、より悪質だった、とも言える。

日本のゲイは、静かに、陰湿に、言わば、「いないものとして」差別され続けており、パレードの、意義も骨抜きにされている、と言ってよい。暖簾に腕押しなのだ。ゲイなどいないものとされてきた日本と、存在を認められて、有罪になっていたヨーロッパと、結果として、どちらがよかったかは明らかだろう。

欧州には、いま、オープンリーゲイの大臣、議員、市長がいくらでもいる。日本はつくづく、本当に、陰湿だと思う。「ホモ(セクシュアル)」は、結婚までの「趣味」で、いずれ妻子をもつのが伝統だったが、これは、今でも政財官界ではそのままだ。

一生、独身で、男を愛する男、男への愛を「卒業」しない男は、法律上、政治的にもいないものとされている。いないものとされるほどの屈辱があるだろうか。

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