「麻呂の教授な日々」

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zoom RSS 恣意性について

<<   作成日時 : 2017/10/11 07:43   >>

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ゼミ生の中に、ドゥ・ソシュールの言語の恣意性を知っている人がいて驚く(思想系のゼミナールなら全員知っているだろう)が。

ふと、考える。恣意的でないものとはなんなのか? 「論理的必然性がある」ものだと『日本国語大辞典』第2版から類推できる。

🐈を「neko」と呼ぶことには、確かに論理的必然性はない。

球体を押すことと、その球体が転がることの間には論理的(物理的?)必然性がある。

しかし、こういう手に触れられるようなことは別にして、言語のような、抽象物の場合、論理的必然性がないのはふつうではないのか。

例えば、ある人の顔を見て嫌悪感を抱いた場合、その顔と、嫌悪感の間に論理的必然性はない。嫌悪感を抱かない人もいるからだ。

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